バダ・ハリ

バダ・ハリ
バダ・ハリ(Badr Hari、男性、1984年12月8日 - )は、アラブ系でオランダ・アムステルダム出身のモロッコ人キックボクサー。ショータイム、マイクスジム所属。初代K-1世界ヘビー級王者。初代IT'S SHOWTIME世界ヘビー級王者。入場曲はAPPAの「Badr Hari Bad Boy」。K-1参戦当初はバド・ハリと表記されていた。
リング外での悪童ぶりとビッグマウスも目立つが、試合運びは極めて正統派。アーネスト・ホーストやブランコ・シカティックも絶賛するほどの才能を持ち、15歳でプロデビューして以来、驚異的な勝率の高さを誇り、セーム・シュルトにも1RKO勝利するなどその実力を発揮している。
「THE GOLDEN BOY」というニックネームの由来は、バダ自ら「俺が触った物は全て金になる。俺がリングを触ればリングが金色に、俺が女の子を触ったら女の子が金色になる。だから俺はGOLDEN BOYだ」と言ったことによって定着した。「悪魔王子」の由来は、「悪魔王子」として恐れられた変則ボクサーナジーム・ハメドから。ハメドもバダ同様アラブ系である。K-1参戦前は「スネーク(蛇)」の異名で呼ばれていた。
“悪魔王子”の異名とともに、WGPに旋風を巻き起こしているバダ・ハリ。 挑発的な態度とビッグマウスに注目が集まっているバダだが、その実力と成長速度は他の若手選手を凌駕する。 日本初登場となった05年のWGP決勝大会では、ステファン“ブリッツ”レコを後ろ回し蹴りでKO。 新時代の到来を予感させた。 その後も07年に新設されたヘビー級のベルトを圧倒的な強さで獲得。 08年に入ると、タイトル初防衛戦でグラウベ・フェイトーザを一蹴。 WGP開幕戦ではチェ・ホンマンを撃破し、決勝大会ではピーター・アーツ、エロール・ジマーマンを粉砕して決勝戦に進出する。 王座まであと一歩のところに迫ったバダだったが、因縁の相手であるレミー・ボンヤスキーに感情が爆発。 バダは踏みつけ行為などの反則を行い、前代未聞の失格を言い渡されることに。 ファイトマネーの没収、タイトルの剥奪など、厳罰に処されたバダ。 アンチ・ヒーローとなってしまったバダの巻き返しに期待したいところだ。
勝敗 |
対戦相手 |
結 果 |
大会名 |
日 付 |
動 画 |
|---|---|---|---|---|---|
○ |
アレクセイ・イグナショフ |
3R判定3-0 |
K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMA |
2010.4.3 |
|
× |
セーム・シュルト |
1R1分48秒、KO ※左ミドルキック |
K-1 WORLD GP 2009 -FINAL- |
2009.12.5 |
|
○ |
アリスター・オーフレイム |
1R2分14秒、KO ※左ハイキック |
K-1 WORLD GP 2009 -FINAL- |
2009.12.5 |
|
○ |
ルスラン・カラエフ |
1R0分38秒、KO |
K-1 WORLD GP 2009 -FINAL- |
2009.12.5 |
|
○ |
ザビット・サメドフ |
1R2分15秒、KO ※右ボディストレート |
K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL -FINAL16- |
2009.9.26 |
|
× |
アリスター・オーフレイム |
1R2分02秒、KO |
Dynamite!! 2008 |
2008.12.31 |
|
× |
レミー・ボンヤスキー |
2R0分53秒、失格 |
K-1 WORLD GP 2008 -FINAL- |
2008.12.6 |
|
○ |
エロール・ジマーマン |
3R2分15秒、KO |
K-1 WORLD GP 2008 -FINAL- |
2008.12.6 |
|
○ |
ピーター・アーツ |
2R1分39秒、TKO ※レフェリーストップ |
K-1 WORLD GP 2008 -FINAL- |
2008.12.6 |
|
○ |
チェ・ホンマン |
延長1R0分00秒、TKO ※タオル投入 |
K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL -FINAL16- |
2008.9.27 |
|
○ |
ドマジョフ・オスタジック |
1R0分19秒、KO |
K-1 WORLD GP 2008 IN HAWAII |
2008.8.9 |
|
○ |
グラウベ・フェイトーザ |
1R2分33秒、KO |
K-1 WGP 2008 IN FUKUOKA ※K-1ヘビー級タイトルマッチ |
2008.6.29 |
|
○ |
レイ・セフォー |
1R2分43秒、KO |
K-1 WGP 2008 IN YOKOHAMA |
2008.4.13 |
|
× |
レミー・ボンヤスキー |
3R判定2-0 |
K-1 WGP 2007 -FINAL- |
2007.12.8 |
|
○ |
ダグ・ヴィニー |
2R1分23秒、KO |
K-1 WGP 2007 IN SEOUL -FINAL16- |
2007.9.29 |
|
○ |
ピーター・グラハム |
3R判定3-0 |
K-1 WGP 2007 IN HONG KONG |
2007.8.5 |
|
○ |
藤本祐介 |
1R0分56秒、KO |
K-1 WGP 2007 IN HAWAII ※ヘビー級初代王者決定戦 |
2007.4.28 |
|
○ |
ルスラン・カラエフ |
2R2分46秒、KO |
K-1 WGP 2007 IN YOKOHAMA |
2007.3.4 |
|
○ |
ニコラス・ペタス |
2R1分28秒、TKO |
K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!! |
2006.12.31 |
|
○ |
ポール・スロウィンスキー |
3R判定3-0 |
K-1 WGP 2006 IN TOKYO 決勝戦 |
2006.12.2 |
|
× |
ルスラン・カラエフ |
1R0分52秒、KO |
K-1 WGP 2006 IN OSAKA 開幕戦 |
2006.9.30 |
|
× |
ピーター・グラハム |
3R2分54秒、KO |
K-1 WGP 2006 IN AUCKLAND |
2006.3.5 |
|
○ |
ステファン“ブリッツ”レコ |
2R1分30秒、KO |
K-1 WGP 2005 決勝戦 ※リザーブファイト |
2005.11.19 |
坂本龍馬

坂本龍馬
生年: 1836年1 月3日
生地: 土佐
没年: 1867年12月10日(満31歳没)
没地: 京都
活動: 倒幕
藩: 土佐藩脱藩
所属: 海援隊
廟: 京都霊山護国神社(霊山墓地)
靖国神社
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6 年11月15日(1836年1 月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐郷士に生まれ、脱藩したのち、倒幕および明治維新に影響を与えた幕末の志士である。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある。
土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれ、国民的人気を得る。また、その事績についてはさまざまな論議がある。
生前より死後に有名になった人物であり、先述の『竜馬がゆく』を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、それらで描かれる人物像は実際の龍馬とかなり異なっているのではないかという指摘がある。
龍馬の伝記を書いた歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井雅道などが代表的。
幼少年期
龍馬は天保6年(1835年)11月15日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)に土佐藩郷士(下級武士)坂本家に父・八平、母・幸の間の次男として生まれた。兄(権平)と三人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、両者の間には様々な待遇差別が存在し、下士は長い間様々な場面で抑圧されてきた。商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の土地財産を相続しており非常に裕福な家庭だった。
龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て(または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも)、それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったという伝説がある。
弘化3年(1846年)、12歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された。幼年の龍馬は寝小便癖が直らない泣き虫の惰弱であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまい、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。
龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている。
嘉永元年(1848年)に日根野弁治の道場に入門して小栗流剣術を学び、非常に熱心に剣術に精励し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」を得た。
暗殺
後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春獄の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談した後、11月5日に帰京した。
11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かった。中岡と藤吉も致命傷を負い、藤吉は翌日、中岡は翌々日の17日に死亡したが、中岡は死の直前まで意識があり、事件の証言を多く残した。
後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春獄の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談した後、11月5日に帰京した。
11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かった。中岡と藤吉も致命傷を負い、藤吉は翌日、中岡は翌々日の17日に死亡したが、中岡は死の直前まで意識があり、事件の証言を多く残した。
続きを読む長谷川穂積

長谷川 穂積(はせがわ ほづみ、男性、1980年12月16日 - )は、日本のプロボクサー。兵庫県西脇市出身。身長167.5cm、リーチ169cm。現WBC世界バンタム級王者。真正ボクシングジム所属。
2005年4月16日に14連続防衛中だった王者ウィラポンに勝ってWBC世界バンタム級タイトルを奪取。以来4年以上に渡ってベルトを防衛し続け、9度の防衛戦のうち4度が世界ランク1位を相手にしながらも勝ち続けて3度の年間MVPを受賞しており、「日本ボクシング界のエース」「PRIDE OF JAPAN」「バンタム級絶対王者」と呼ばれている。1秒間に10発のパンチを打てるほどの超高速の連打と絶妙なカウンターパンチ、卓越したディフェンステクニックとスピードを誇る。
* 日本プロボクシング発祥の地の一つである神戸の名門・神戸拳闘会の流れを汲む千里馬神戸ジムから世界を獲って地元を盛り上げた。現在は真正ボクシングジム所属。
* 5人兄弟の次男として生まれた。現在は2児の父親でもある。
* 2009年7月現在、6人の日本のジム出身男子世界王者の中でも、辰吉や西岡らを退けてきたウィラポンから2勝(1KO)し、WBCタイトルを9回防衛し、2005年度、2006年度、2008年度MVPを獲得しているのもあり、日本のジム所属の世界王者が1人の時代(冬の時代)を支えてきた徳山昌守に代わる、事実上の日本プロボクシング界のエースである。バンタム級は多くの日本人の名王者を輩出してきたため、「黄金のバンタム」と呼ばれる日本ボクシング界伝統の階級であり、長谷川は2008年1月に5度目の防衛を果たしたことで、ファイティング原田、薬師寺保栄の持つバンタム級の世界タイトル連続防衛の日本記録を更新したこともあって、日本ボクシング界のエースとしての地位をより強固なものとしている。9度の防衛戦のうち、対戦相手は世界ランク1位が4度、それ以外も8位、4位、9位、2位と全て一桁ランカーであり、下位ランカーのいわゆる噛ませ犬を相手に防衛回数を稼ぐようなことは一切していない。また、日本テレビは長谷川の世界王座獲得以来、長谷川の防衛戦の放送をワールドプレミアムボクシングと銘打って大々的に中継するようになった。
* 世界王座獲得直後のインタビューでは「地味なチャンピオンでええです」と謙虚に語っていたが、強さを求める姿勢は非常にストイックである。世界王者になる前の長谷川はスピードとバランスを生かしてポイントを稼ぐための"倒さないボクシング"を徹底していたが、世界王座獲得後は“KOするボクシング”を目指して徐々にファイトスタイルを改良し、9度の防衛のうち6度のKOを果たしている。
* 日頃から「マニー・パッキャオやフロイド・メイウェザー・ジュニアのような“神の領域”に達したボクサーになりたい」と公言している。
* 所属する真正ジムの会長で長谷川の専属トレーナーも務めているのは、元兵庫県警警察官でアマチュアボクサー経験皆無でありプロボクサー経験皆無という異色の経歴の持ち主である山下正人。長谷川は山下に全幅の信頼を置いており、「山下会長あってのオレなんです。会長がオレのセコンドに就かないなんて考えられない」と語っている。
* 現在、長谷川の母親は癌を患って入院して闘病生活を送っており、特に最先端の陽子線治療を受ける際には陽子線治療機関への一度の入院で約300万円の医療費がかかるため、「母親のためにも絶対に勝ち続けて医療費を稼ぎたい」という気持ちが大きなモチベーションの一つになっている。
* 入場テーマは、幻想的なバラードの「Once You Had Gold(Enya)」。
* 好きな歌手はFUNKY MONKEY BABYS、座右の銘は「意思道拓」である。
世界王座獲得
2005年4月16日、ちょうど20戦目にして世界初挑戦となった。WBC世界バンタム級王座を6年以上保持し続け、これが15度目の防衛戦となった当時バンタム級最強王者と呼ばれていたウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ/47勝(33KO)1敗2分)と日本武道館にて対戦。長谷川は序盤から有効打を的確に当て、4Rまでリードを奪っていく。しかしウィラポンも王者の意地を見せ、試合の中盤を支配した。試合終盤に長谷川はスタミナ切れを起こし始めたウィラポンを攻め立て、10Rにはウィラポンをグラつかせた。最終12Rまで壮絶な打ち合いを演じ、3-0の判定勝ちで世界王座を獲得した。この試合は2005年度年間最高試合に選ばれた。
なお、新王者となった長谷川への表彰中、元WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎がリングに上り、長谷川を無視してウィラポンの片手をあげリングを一周し、そのままウィラポンと共に控え室へと帰った。ウィラポンが持っていたチャンピオンベルトも共に控え室へと消え、新王者の長谷川に巻くベルトがないという異常な事態となった。
この試合中継は関西地方では、翌日深夜の録画放送のみであった。この世界王座奪取が高く評価され、5月には鈴木啓示(プロ野球・近鉄元投手)、渡辺公二(西脇工業高校陸上競技部監督)に続く西脇市民栄誉賞を受賞した。
今後の展望
世界王座獲得後から「将来的にはボクシングの本場であるアメリカのラスベガスで戦って世界的なスターになりたい」と公言している。現在の目標は「ラスベガス進出、他団体との統一王者、日本人史上初の3階級制覇」。また、日本ボクシングコミッション(JBC)はIBFとWBOを公式な世界王座団体として認定しておらず、IBFとWBOのタイトルマッチに日本人ボクサーが出場することを禁止しているが、「国内世界王者とJBC未公認メジャー団体(IBFとWBO)王者による王座統一戦に限り、容認する」との意向を表明したため、他団体王者との統一戦実現のための追い風が吹いている。1階級下のスーパーフライ級にはビック・ダルチニアン、ホルヘ・アルセ、1階級上のスーパーバンタム級にはイスラエル・バスケス、ラファエル・マルケス、ファン・マヌエル・ロペスといったラスベガスでも人気の高いスーパースターが揃っているため、彼らとの対戦が期待されている。また、2009年になってから長谷川本人はWBA世界フェザー級スーパー王者クリス・ジョンとの対戦を希望する発言が多くなった。ただし、WBC世界スーパーバンタム級王者の西岡利晃、前WBC世界フェザー級王者の粟生隆寛は帝拳ボクシングジム所属のため、事実上の帝拳傘下の選手である長谷川が階級を上げた場合、西岡と粟生との同門対決を避けながらビッグマッチ実現を目指さなければならない立場にある。
ホイットニー・ヒューストン

ホイットニー・エリザベス・ヒューストン(Whitney Elizabeth Houston、1963年8月9日 - )はアメリカ合衆国の女性歌手、女優、元ファッションモデルである。
著名なソウルシンガーを親戚に持つ。11歳の時にジュニア・ゴスペル・クワイアに入り、ニュージャージー教会で歌い始めた。ニューヨーク市地域のナイトクラブで母親とパフォーマンスをしていたところをアリスタ・レコードの社長クライヴ・デイヴィスによって発見された。
1985年、デビュー・アルバム『ホイットニー・ヒューストン』を発表。アルバムは女性歌手のデビュー・アルバムのベストセラーになる大ヒットとなった。1987年に発表した2枚目のスタジオ・アルバム『ホイットニー』は、Billboard 200チャートに初登場1位を記録する(女性歌手では初)。1992年に初主演映画『ボディガード』が公開される。映画のサウンドトラックは1994年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞するなど高い評価を受けた。アルバムからのシングル『オールウェイズ・ラヴ・ユー』は自身最大のヒットとなった。
ホイットニーは世界で最も売れている歌手の1人である。累計セールスはアルバムは1億4000万枚以上、シングルは5000万枚以上で、アメリカ合衆国のRIAAより「アメリカ合衆国で(女性アーティスト史上)4番目に売れている歌手」と評価されている[3]。また、音楽雑誌『ローリング・ストーン』によりその声を「強力で鋭いポップ・ゴスペル」といわれ、オール・タイムの素晴らしい歌手100人の内の1人であると評価された。
ホイットニー・ヒューストンはニュージャージー州ニューアークで父ジョン・ヒューストンと歌手の母シシー・ヒューストンの3番目の子供として生まれた。母シシーは60年代に活躍したスイート・インスピレーションズのリード・ボーカルで、後にはエルヴィス・プレスリーやアレサ・フランクリンのツアーにバック・コーラスとしても参加している。シシーがツアーに出ている間、父親ジョン・ヒューストンが育児を担当した。従妹にはディオンヌ・ワーウィック、ディ・ディ・ワーウィック、ジュディ・クレイなどゴスペル、R&B、ポップ、ソウルなど多くのジャンルでヒットを持つ歌手がいる。アレサ・フランクリンはホイットニーの名付け親であり代母である。
1967年にニューアーク暴動が起こるとイースト・オレンジに引っ越した。幼い頃にニュージャージーのニュー・ホープ・パブティスト協会の聖歌隊に加わり、ゴスペルを学ぶ。11才の時には聖歌隊のソリストとして活躍。教会での最初の単独パフォーマンスは『Guide Me, O Thou Great Jehovah』という曲であった。これより少し前にピアノも習い始めた。
ホイットニーが10代の時に両親が離婚、母シシーが養育権を得た。ホイットニーはローマカトリック教会の男女共学でない高校に通った。そこで、親友となるロビン・クロフォードと出会う。高校に通う間も母シシーがホイットニーに歌を教えた。
10代の頃にモデルとして活動したり、チャカ・カーンらのバックボーカルを務めるなどして頭角を現した。1983年に敏腕プロデューサーのクライヴ・デイヴィスの目にとまり、アリスタ・レコードと契約した。翌年にはテディ・ペンダーグラスとのデュエット曲がヒットした。
1985年にデビューアルバム『Whitney Houston』をリリースし、いきなり爆発的人気を獲得した。2作目のシングル『Saving All My Love For You』から7曲連続で全米シングルチャート1位の記録を打ち立てた。
1991年の第25回スーパーボウルで国歌を披露。これは後に語り継がれる名演となり、シングルとしても発売された。この歌唱は10年後にアメリカ同時多発テロ事件のチャリティとして再リリースされ、ヒットしている。
1992年、ケビン・コスナーと共演した初主演映画『ボディガード』が公開され、成功を収めた。彼女の新曲6曲を収録したサウンドトラックは全世界で3000万枚を売り上げ、日本でも当時洋楽史上最高の280万枚を売り上げる驚異的なヒットとなった。カントリー歌手、ドリー・パートンのヒット曲をカバーした主題歌、「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は全米シングルチャートで14週連続No.1を記録する自身最大のヒット曲になった。
同年R&B歌手、ボビー・ブラウンと結婚。翌年には一人娘ボビー・クリスティナ・ヒューストン・ブラウン(Bobbi Kristina Houston Brown)を出産した。
その後も主演映画『ため息つかせて』(1995年)、『天使の贈り物』(1996年)が公開される。『ボディガード』には遠く及ばないものの成功を収め、サウンドトラックもヒットした。
1998年、オリジナルアルバムとしては実に7年ぶりとなる『My Love Is Your Love』をリリース。翌年にはVH1 Divas Live 99に出演して高評価を得るなど、再び歌手活動を本格化させた。
2000年にベストアルバムを発売したが、時期を同じくしてハワイの空港で大麻所持で拘束された。激しく体重の落ちた姿が度々見られるなど健康を害し、その後テレビ番組で大麻やコカイン等の常用、セックス中毒であったことを告白している。夫が暴行などで度々逮捕され、離婚説が幾度も報じられるなどのトラブルもあり、週刊誌やテレビ等で私生活を取上げられる事が多かった。
2001年、映画『プリティ・プリンセス』の音楽製作に携わる。
2004年から翌年にかけてリハビリ生活を続けた。2006年9月13日、ボビー・ブラウンとの結婚生活に終止符を打つべく離婚申請書を裁判所に提出し、同年10月に離婚が成立した。
2008年6月には年末にクライヴ・デイヴィスのプロデュースの元、ニュー・アルバムをリリースすると発表した。しかし、この発売は延期され、翌2009年6月になって同年9月1日にリリースすることが報じられた。
7年ぶりの新アルバム「アイ・ルック・トゥ・ユー」 Whitney Houston I Look To You
ニコラス・ケイジ

ニコラス・ケイジ(Nicolas Cage、本名ニコラス・キム・コッポラ(Nicolas Kim Coppola)、1964年1月7日- )は、アメリカ合衆国の俳優であり、映画監督、映画製作者でもある。愛称はニック(Nick)。身長185cm。
カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。父親のオーガスト・コッポラはイタリア系で大学教授兼作家、母親のジョイ・フォーゲルザングはドイツ系のバレエ・ダンサー。兄(マーク、クリストファー)がおり、クリストファーは映画監督をしている。
父方の祖父は音楽家・作曲家のカーマイン・コッポラ、祖母は女優のイタリア・ペニーニ。叔父に映画監督のフランシス・フォード・コッポラ、叔母に女優のタリア・シャイア、いとこにソフィア・コッポラ、ローマン・コッポラ、ジェイソン・シュワルツマンがいる。
1981年に『初体験/リッジモント・ハイ』でニコラス・コッポラとしてデビュー。その後、現在の芸名に変更。芸名の「ケイジ」の由来はマーベル・コミック社のコミック「パワーマン」の主人公ルーク・ケイジから。若い頃はコッポラ監督の甥と呼ばれることを嫌がっていた。オーディションを受けても、製作者たちの浴びせる質問は彼についてではなく、叔父フランシスのことばかりだったという。本名のコッポラを名乗らず、あえて“ケイジ”の芸名を使うことにしたのも、そのためと言われている。
1995年の『リービング・ラスベガス』でアカデミー主演男優賞を受賞。オスカー受賞後は、芸術的な映画に留まらず、大作映画にも積極的に出演した。同業のショーン・ペンはケイジの大作映画出演をいぶかしく思っていると発言した。
サターン・フィルムズ(Saturn Films)という映画制作会社を設立。2000年に『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』に製作者として参加し、2002年には『ソニー』(sonny)に監督兼プロデューサーを務めた。その後も、映画制作会社サターン・フィルムズの共同経営者として、いくつかの作品をプロデュースしている。
非常に車好きでフェラーリの現行車種を全車種(限定車のエンツォ等含む)所有している。また、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー元国王が所有していたランボルギーニを所有していたこともある。
またアメリカンコミック好きでも知られ、自身の芸名はもとより息子の名前にカルエル(スーパーマンの本名)と名づける程である。彼のコミックコレクションをオークションにかけた際に出品された400品目の中にはアクションコミック1号やウィズコミック1 号、ディテクティブコミック38号、オールスターコミック3号等のレアアイテムが目白押しで総落札額は160万ドルに達した。また日本の成年コミックに並々ならぬ興味を示しており「論ずるに値する」と述べている。
また、カルト映画も好きで、同じ趣味のラモーンズのリーダーのジョーイ・ラモーンとは親友だった。そのため、ケイジは彼が好きだったカルト映画『ウィッカーマン』を自費で2007年にリメイクし、ラストに「ジョーイ・ラモーンに捧ぐ」とクレジットした。しかしそのため、ラジー賞主演男優部門をはじめ5部門にノミネートされる結果となった。
映画『NEXT -ネクスト-』 予告篇
元フィンガー5のヴォーカル玉元 晃

元フィンガー5のヴォーカル玉元 晃
フィンガー5(フィンガーファイブ、Finger 5)は、1970年代を中心に活躍した歌謡アイドルグループ・男女混合アイドルグループ。メンバーは沖縄県出身の5人の兄弟(男4女1)であり、ダンスをこなしながら歌うスタイルと、メインボーカルであった四男・アキラの変声期前のハイトーンボイスとその歌唱力やルックス、独特の演出、良質な楽曲などで爆発的な人気となり、ミリオンセラーを飛ばした。
バンドという名目ではあったが、全盛期に楽器演奏を披露する場面はほとんどなかった。解散後も時折音楽活動を行ったり、テレビ出演等をしている。
米国占領下の沖縄で、在日米軍の許可を受けた飲食店(通称、Aサインバー)を父親が経営していた。こうした環境で小学生であった長男・一夫、次男・光男、三男・正男はアメリカンソングに感化され、「オールブラザーズ」という名で活動を始める。晃と妙子は、晃曰く「後から嫌々参加させられた」と述べている。英語の歌詞は聞こえた音をカタカナでメモし、キーボードは紙に書いた鍵盤で練習した。
なお、このバーは他の経営者に渡ったが、少なくとも21世紀初頭までは存在し、店の写真がテレビや書籍に登場している。
オールブラザーズは必ずしも順風満帆だった訳ではなく、妙子は着た事も無い沖縄の民族衣装を着せられ、出した曲についても、晃はタイトルさえもう覚えていない曲があると言う。沖縄のテレビ番組で優勝したのを契機にプロデューサーに薦められ、一夫が14歳の時に、パスポートを手に東京へ進出。上京した一家は「歩くのがはやい、喋るのもはやい、お札の色が緑(米ドル)でない」事に驚いたと言う。当初は売れずに苦しい時代をすごし、学校では「売れない歌手」と悪口も言われた。そんな彼らが歌うアメリカンソングも米軍基地では大歓迎であり、母が車を運転し、日本中の米軍基地で慰問コンサートを行う。
その頃、子供向けに子供を使った歌手をデビューさせたいという企画の担当者がたまたま彼らの存在を知り、「少し出来るだけのガキだろう」と思いながらデモテープを聴いた途端、これは本物だと眼の色を変え沖縄に戻る準備をしていた一家を説得、1972年に「フィンガー5」として再デビューとなる。名付け親は兄妹の実母で、米国で当時大ヒットを飛ばしていた、5人兄弟で結成された同じ形態のグループ「ジャクソン・ファイブ」を意識したものである。
初めてのオンエアは、子供の視聴が多い土曜の夕方を狙って放映され、放映直後のテレビ局には質問の電話が殺到した。翌1973年にリリースした世志凡太プロデュースによる『個人授業』がミリオンセラーとなり、一気に知名度が上がる。その後『恋のダイヤル6700』『学園天国』などをリリース、いずれもミリオンセラーとなり、後世に残る楽曲となった。テレビ・映画にも多く出演した。楽曲は所謂学園歌謡ともいうべき、学校における恋愛が一貫してテーマであった。
5人の中でも特に、年少の晃と妙子に注目が集まった。デビュー当時は11歳と10歳であり、まだあどけない姿で大人顔負けのステージをこなす姿が人気であった。また晃は特大のサングラス姿がトレードマークとなっており、それが流行にもなった。
また芸能人は一般にマネージャーを随行するものだが、彼らは基本的に自らの意思で始めたとあって、一夫が兼マネージャーとして、仕事の交渉やスケジュール管理までこなしていた。
だが大人気により過労という問題が大きくのしかかる。全盛期の晃は過労で病院にかつぎこまれた際、医者が関係者に「あなたたちは、この子を殺すつもりか」と言ったという。また晃の変声期が来た際は、「声変わり」を防ぐためにスタッフが「女性ホルモン」の注射を強く勧めるも本人は断っている。
AKIRA〜T.AKIRA(2002.9〜)
ライブ
* 2002年3月 赤坂のライブハウスにてファンの集いを行う。兄の正男、妹の妙子も参加。
またこちらと同時にファンの夢である、フィンガー5コンプリートCDBOX発売を翌年のフィンガー5 30周年に実現に向けての署名活動もはじまる
* 2002年9月 AKIRAとして、音楽活動開始。
* 2005年4月 T.AKIRAと名前を変え、以降、ライブを中心に音楽活動をしている。
* 『ライヴ・サウンドストーン』(2002年9月14日・11月30日・2003年3月1日)
* 『ライヴ・シティハウス』(2002年11月16日)
* 『ライヴ・Wood Stok』(2003年4月12日)
* 『ライブ・原宿OH! GOD』(2003年5月10日・7月26日)
* 『ライヴ・赤坂グラフティー』(2003年9月13日)
* 『ライヴ・大塚WelcomeBack!』(2003年11月8日、2004年6月19日、2005年4月30日)
* 『バースデーライヴ・パシフィックホテル ブルーパシフィック』(2004年5月8日 …他多数)
* みなとみらい野外ライヴ 『T.AKIRA Summer Festa 2005』(2005年8月20日)
* 『Birthday Dinner Live ・Old IMARI』(2006年5月6日)
* 『ライヴ・musican's Bar B-flat』(2007年2月2日・4月15日)
* 『Birthday Dinner LIVE・RISE TOKYO』(2007年5月12日)
テレビ・CM
* テレビ朝日『史上最強のメガヒットカラオケBEST100 完璧に歌って1000万円』
* よみうりテレビ『週刊えみぃSHOW』
* 日本テレビ『ニュースプラス1 <エンタメ5>』
* TBS『おはよう!グッデイ』 『ジャスト』
* フジテレビ『Dのゲキジョー』
* スカイパーフェクTV! ミュージック・エア〜『好き!好き!モンキーズ』
* 日本テレビ『あの人は今!?第30回記念 世紀のスクープ77連発』
* 日本テレビ『踊る!さんま御殿!!』
* NHK BS2『日めくりタイムトラベル』
* 日本テレビ『行列のできる法律相談所』
* テレビ東京『田舎に泊まろう!』(2007年11月25日)
o 沖縄県出身の歌手・南沙織が歌った「17才」の舞台とされる、山口県防府市を訪ねた(作詞者・有馬三恵子の出身地)
* テレビ東京『年忘れにっぽんの歌』(2007年12月31日)
* フジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』(2008年1月16日)
* フジテレビ『売れなきゃよかった…金曜日の告白SP!大壮絶人生』(2008年3月7日)
* NHK『思い出のメロディー』(2009年8月22日)
フィンガー5の学園天国。懐かしい映像ですね。
フィンガーファイブ / 恋のダイヤル6700 2008年
亀田興毅

亀田興毅
(かめだ こうき、男性、1986年11月17日 - )は、日本のプロボクサー。大阪府大阪市西成区天下茶屋出身。亀田三兄弟の長男で、亀田大毅・亀田和毅は弟、亀田史郎は父にあたる。身長166cm、体重50〜52kg。平常時は60kg。血液型B型。
11歳の時、父・史郎からボクシングを教わるようになる。
大阪市立天下茶屋中学校時代の3年間は、空手とボクシングの練習を並行して行っていた。
14歳の時、井岡弘樹とエキシビションマッチを行った。
中学卒業後、ボクシングに専念するため高校には進学せず、社会人ボクシングで活動した。
2002年全日本実業団選手権フライ級優勝(当時15歳6か月)、全日本社会人選手権フライ級ベスト4。
2003年全日本実業団選手権フライ級優勝、第55回全日本社会人選手権フライ級優勝(16歳10か月)。
17歳の誕生日(2003年11月17日)にプロボクサーとなった。
2005年4月28日に大阪のグリーンツダジムから東京の協栄ジムへ移籍。この時、3,000万円という移籍金が支払われたと報道された。
2006年8月2日に元WBAミニマム級暫定王者ファン・ランダエタとの世界戦を行い、12R判定で勝利(2-1)、WBAライトフライ級チャンピオンとなった。
2006年12月20日、東京・有明コロシアムにて、ファン・ランダエタ(ベネズエラ・同級1位)との再戦が行われ、12R判定で勝利(3-0)。
2007年1月18日、協栄ジムで行った記者会見で王者返上を表明。3月24日に両国国技館で行う予定の試合はノンタイトルの10回戦で、フライ級に階級を戻して臨むことを発表した。
2007年10月11日、弟・亀田大毅の世界タイトル戦のセコンドにつき、「肘でもいいから目に入れろ」と不適切な指示をしたとして日本ボクシングコミッション(JBC)より厳重戒告処分を受けた。また、10月25日に予定されていた自身の試合も「対戦相手が決まらなかった」との理由で中止となった。
なお、行われる予定であった試合については、10月26日の記者会見で以下のことが明らかになった。
o 中止になった理由については、処分待ちの時点でリングに上がれないと亀田側が一方的に判断していただけであった。
o 対戦相手は決まっており、相手も試合に向けて調整を行っていたが、試合のキャンセルの連絡を入れていないなど主催者側にも不手際があった。
反則指示に関して、初めはブログで否定していた。しかし2007年10月26日、協栄ジムで行った記者会見で10月11日の亀田大毅の世界戦において反則行為を指示したことを認め、一家を代表して謝罪した。その際、協栄ジムは興毅に「3か月間の試合自粛」の処分を下したと発表した。
亀田興毅 vs カルロス・ボウチャン
内藤、亀田興との対戦決まる=6度目の防衛戦−WBCフライ級
世界ボクシング評議会(WBC)フライ級チャンピオンの内藤大助(宮田)が、6度目の防衛戦を世界ボクシング協会(WBA)元ライトフライ級王者で同フライ級1位の亀田興毅(亀田)と行うことが25日、両選手のジムから発表された。両ジムとWBC、日本ボクシングコミッション(JBC)が合意したという。試合日時などは調整中で、近く記者会見で正式発表される。
内藤は2007年10月に亀田興の弟、大毅と対戦し、反則行為を受けながら初防衛。その後も4度防衛した。
亀田興は世界戦に先駆け、9月5日に東京でノンタイトル10回戦を行うことが決まっている。
内藤は「期待にいい形で応えられるよう全力を尽くす」、亀田興は「(弟の)大毅が取れなかった緑のベルトを必ず持ち帰る。2階級制覇させてもらう」と、それぞれジムを通じてコメントした。